『歳時記 中国雑貨』
原口純子さんが本を出しました。
その名も、『歳時記 中国雑貨』。
ポップでキッチュ、だけど偉大な中国雑貨に込められたストーリーを、原口さんがひもときます。パンダの写真集でおなじみの写真家・佐渡多真子さんの美しい写真とともに、変わりゆく中国の、変わらず愛されるモノを紹介するフォトエッセイ。小さな本の中に、健気で愛すべき、人とモノがぎっしり詰まっています。
神は細部に宿りたもう―――そう、中国の賢さ、美しさは、
こんな身近なモノにこそ込められているのです。
原口純子【著】・佐渡多真子【写真】
定価1200円 木楽舎刊
◆本書より◆
中国の伝統劇・京劇の舞台用の靴。演じられる役に合わせていろいろな形がある。美しい刺繍が舞台に映える。(162頁より)
量り売りが多い中国の茶葉、注文したらものの見事に紙で包んでくれる。幸せも一緒に包んでくれそう。( 57頁より)
2007-09-21 | Permalink
4000年の占い体験
隣町、天津まででかけ、噂の占い師に会って来た。四柱推命というよりは、霊視に近く、なにか問いかけるとジーッと頭を抱え込み、脳裏のなかに見えた答えを教えてくれる先生だ。
先生の噂を聞いたのは、去年の夏。知人の日本人女性がツテをたどって占いにでかけたところ、彼女の姿をみた先生が開口一番、「あんた、日本にとんでもないものを持って帰ったね」と言われたという。実は彼女、骨董市で買った仏像を日本の家に持ち帰り飾っていたのだが、先生は、その仏像の姿や日本の家の間取りをズバズバと指摘、「あれには悪い気がついているから捨てなさい」といわれたとか。
こんな的中エピソードを聞いて、私もジッとしていられなくなったが、先生の家に何度電話しても誰も出ない。しばらくするうち私も忘れてしまい、そのまま春になっていたのだが、先日やっと連絡がついて、いざ霊感体験、ということになったのだ。
北京から天津までは、いま特急列車ができていて約1時間。女友達と3人ででかけ、久々の修学旅行気分になる。
駅を降りて、先生の住むアパートを探してみると、意外に質素な団地住まい。ドアを開けると待合室のようなところに先にやってきた人たちが座っている。しばらくして先生が登場、40代くらいのごく気さくなおじさんで、ちょっとした商売でそこそこ成功をおさめているタイプの外見だ。
さて、先に来ていた30代くらいの女性から占い開始。驚いたことに、先生と女性が別室に行って一対一で始まるのかと思っていたら、そのまま大部屋で全員、清聴のもと占いが始まるのだ。女性の悩みも、先生の答えも、当然、筒抜け。周囲の人もジーッと聞きつつ、時に相槌をうったり、小声で会話したりしている。
なんとおおらかな大陸式。そのまま先生に相談する人たちの姿を見続けていると、人間の悩みなんて、自分だけの特別なもののように思ってはいても、過去から今まで何度も繰り返された珍しくもないもので、結局それが世の中なのかな、という気になってくる。
あと一つ思うのは、占いは占われる人の言語能力にもかなり結果が影響されるのではないか、ということだ。
大部屋でいろんな人の悩み相談を聞いていると、延々とグチが続き先生に「で、聞きたいことは何?」と言われるタイプの人がいる。何が聞きたいのか、自分でも整理できていない人って、少なくないのだ。
自分でもインタビューをしたり、されたりする経験のなかでつかんだことだが、「原口さんってどういう人?」と「どう」と聞かれると答えるのがなかなか難しい。「原口さんって短気ですか、それとも気が長い人ですか?」と二者択一で問いが具体的にしぼられるほど、考えるポイントが分かるので、答えが比較的出やすいように思う。
霊視の先生だって同じことで「私の人生はどうなるんですか?」と「どう」で聞かれても、「そういわれてもなあ……」となり「AかBか」と具体的に質問するほど、霊視もクリアに見えるようなのだ。
そんなことを考えつつ、さて、私の番がきて、実は困惑。私は典型的な「どう」の人で、「AかBか?」みたいな具体的な質問をするのが本当は怖い。だって「今後1年間、北京に住んでいたほうがいいか、住まないほうがいいか?」と質問して、「いますぐ、北京を去りなさい!」なんて先生に断言されたら、気が小さい私など、影響されてしまう。やっぱり判断は自分でしたいし……。
というわけで、「今後、仕事の上ではどんなことに気をつけたらもっといい結果が得られるでしょうか?」くらいにしておいたのだが、先生の答えは「人の忠告をよく聞くこと」、そう、ごもっともです。そのうえ先生には、「あんたは自分の考えがある人だから自分の思うように決めるのが一番いい」と言われ、うーん、そうもできないから占いに出かけているのに、なんだか……。
でも、占いにでかけてなんだか気持ちがせいせいしたように思えた。一緒にでかけた友達が「でも、人生なんて先が分かっちゃったらつまらないよね」と感想を言っていたが、心からその通り、と私も思えたから。
やっぱり人生、先が見えないほうが面白い。
そういうわけで、ゴールの見えない北京生活、冒険はまだまだ続きそう。
2006-03-31 | Permalink
新北京観光
トリノ五輪も終わり、いよいよ気分は北京オリンピック!これはもしかしたら地元だけの早すぎる盛り上がりかもしれないが、少なくても私はそういう気がしてる(笑)。考えてみれば、オリンピックシティに住み、開催されるまでのプロセスを体験できるような機会は、めったにあるものではない。自国での開催自体が少ないのだし、その時、自分がその都市に住んでいることなど、もっと少ない。2008年8月8日まであと2年半あまり。この貴重なる時間をじっくりと味わおうと思っている。
オリンピックシティに住む者として、最近は、日本から友達が遊びにやってくると新・観光コースを思わず推薦してしまう。
1番のおすすめは、2004年秋、地下鉄・前門駅近くに完成した「北京市規劃展覧館」、英語名は、北京アーバンプランニングエキジビションセンター。
いかにもおカタい名前でつまらなそうだが、これがなかなか面白い。1階は企画展、2階は北京の各区のプランニングに関する展示。3階が一番の見もので、1つのフロア全体を使って北京の中心部を750分の1に縮小した巨大な立体模型が置いてある。2008年以降の北京の様子を展示したものなので、オリンピック関連の施設も、もちろんすべて出来上がった状態だ。
故宮の真北に広がる広大なオリンピック関連の敷地。その様子を見せると、誰もが「ああ2008年にはこんな風になるんだ」と感動してくれる。敷地のなかでも目立つのは、コンペの結果、スイスの建築家、ヘルツォーク&ド・ムーロンのデザインに決定した、ナショナルスタジアム。鉄鋼を鳥の巣のように編んで築きあげる斬新なデザインで、いかにも難しい工事が想像される。そのまわりには各競技のスタジアムが点在、一つ一つチェックしていくのが楽しい。
実はこの立体模型、北京のかなり広いエリアにわたっているので、いま私が住んでいるマンションまでも、ちゃんと模型になっている。借家とはいえ我が家を公共のエキジビションセンターで眺められるとはかなり誇らしい。これもオリンピック開催の4年も前から気合をいれてこんなセンターを開設している北京に住むおかげ。友達にも「これが私の住んでいるマンション」と指差して見せると、ここまで模型に仕立てあげた北京の気合に、みな半分呆れながらも感心してくれる。
センターを出たら、次は徒歩で数分の天安門広場へ。ここは誰でもでかける定番の観光地だが、2004年の9月から広場の東側、国家博物館前に巨大なカウントダウン時計が置かれている。オリンピックまであと何日、何時間、何秒かを表示するデジタル式。広場の観光には、このカウントダウンの前で写真を撮ると、北京オリンピックのどのくらい前に自分がこの街を訪れたのか、きちんと記録されるので、お勧め。ついでに国家博物館の南側には、今年の夏決まったばかりのオリンピックマスコットを売るショップがすでにできているので、レアもののおみやげを買うのもいい。
新北京観光の最後は、オリンピックの建築現場にでかけてみたい。エキジビションセンターで眺めた模型の数々を完成させるべく、広大なエリアにわたって今まさに大工事が進行中だ。私が好きなのは、なかでも「北辰東路」を北上するコース。左手にナショナルスタジアムの骨組みが見え、少しずつそれが進化していくことにいつも心を打たれる。鳥の巣のように鉄鋼を編んでいくようなデザイン、今はまだその底の部分ができているだけ。でも四角い建物ができていく時と違い、デリケートな曲線の鉄鋼がまさに編み上げられていくような様子は、このスタジアムの建築プロセスにしかみられない風景という気がする。
完成後には見られない、今だけの北京オリンピック・プロセス風景。故宮や長城といった永遠不変の観光地と違い、ここは毎度見るたびに成長していく。だから友人たちに勧めつつ、私自身もいつもワクワクと「観光」気分になってしまう。
2006-03-01 | Permalink | コメント (0)
百花繚乱、大陸の水餃子
1月29日に旧正月を迎えた中国。29日から今日にかけて、いったい何億の人が旧正月の定番・餃子を食べたことだろう。旧正月だけでなく、来客の時にも作られることが多い餃子、私も様々な家で頂く機会が多く、作り手の顔や餃子の様子が幾通りも心に刻まれている。
日本と中国の餃子の風景、まるで別の食べ物のように、まったく違う。小さなお皿に数個の焼き餃子がちんまりと盛られて出てくる日本のそれと比べ、中国の餃子の風景は壮大なスケール感にあふれている。
小麦粉にお湯を混ぜて練り、生地を作るところから餃子作りがスタート。その後、しばらく寝かせた生地を取り出し、小さくちぎっては薄くのばし、手作りの皮をこしらえていく。その合間には、皮のなかに入れる餡を作る。皮と餡が揃ったところで、餃子を包む作業が始まり、家族や親戚、時には近所の人も加わって、おしゃべりをしながら、延々と餃子をこしらえていく。都会の家庭でも軽く100個くらいは作るし、農家に出かけると300個も400個も作るのが普通。
都会のアパートでは、リビングに置いたテーブルをまな板がわりに、農家では土間に木のテーブルを置いて、みんなで世間話をしながら餃子を包む。人数がいないとできない壮大な料理だから、団欒のイメージそのものの食べ物なのだ。
包み終わるとようやく、沸騰したお湯に入れて茹でる最後の仕上げになるのだが、ここまでで軽く半日はかかっている。人数はもちろんだが、悠然と流れる時間もなければとてもできない、究極のスローフードかもしれない。
大量に包んだ餃子は、大鍋で茹でて水餃子で食べる。ツルツルと喉越しがよくすべるような水餃子、中国に暮らすようになってからはこちらの食べ方のほうが圧倒的に美味しいと思う。
実は中国では、焼き餃子は、残った水餃子を翌日に処理する時の食べ方。冷えてしまった水餃子をオイルで焼く「残り物」のイメージが強く、あまり美味しい食べ方だとは思われていないようだ。
だからどこの家にでかけても、餃子といえば出てくるのは水餃子。こう書くとどこの家でも似たような味がでてきそうだが、各家によって、本当にバラエティに富んでいる。
中国の内陸・西安で頂いたヒツジの肉とニンジンの餃子。大連から小船で渡った小さな島の漁村で頂いたアサリの餃子。肉が嫌いな北京の友人の家では、押し豆腐を刻んだ餡の餃子を作る。小さな子供のいる友人の家の定番は、一人っ子の息子の好物だというトマトと卵の餃子。肉好きの家では、トリ肉とブタ肉とエビのボリュームたっぷりの餃子を出してくれたこともあった。
どんな肉でも、野菜でも、魚介類でも細かく刻んで餃子にしてしまう中国。水餃子、という単純な料理法でも、実に様々な味があって、飽きることがない。
中国、とくに小麦粉の産地の北部では、たいていの街に餃子の専門店があり、そうした食堂では、何十種類もの餃子をとりそろえている。各種の味を食べ比べてみるのもおすすめ。中国では餃子はとても安い庶民の食べ物で、1皿100円くらいで食べられることも多いので。
こうして各地、各家、各食堂で人の作った餃子を食べてばかりの私、自分でも一応作り方を習ったりしているのだが、時間を捻出するのがなかなか……。調理用具の専門市場で買った麺棒を大事にしまっていて、いつか友人知人を招集してゆっくり作るのを楽しみにしている。
2006-01-30 | Permalink | コメント (0)
世界の衣料品工場でバイヤー気分に
世界中で売られる服に「メイド・イン・チャイナ」の比率が増えるばかりの今日このごろ。格安衣類はもちろん、名だたるブランドのハイクオリティの服も、その多くが中国で生産されるようになっている。
多くのファッション産業の生産基地は南部の江蘇省や浙江省だが、私の住む北京には、そうした工場からの横流れ品を売るマーケットがある。観光客にもよく知られているのは「秀水市場」というスポットだけれど、私がよく通うのは、「日壇公園」という公園のなかにある「日壇商務楼」というビル。このなかには、いわゆるアウトレットを扱う小さな店が密集している。地元のファッション誌のエディターやスタイリスト、ヘアメイク、モデルといった関係者はもちろん、外資系企業など高収入のキャリアウーマンや芸能人もよくお忍びで買い物に訪れる北京の隠れた名所だ。
店はどこも小さなワンルームマンションくらい。そこにぎっしりと服が並べられている。シャツ類は200元(約2800円)前後から、ワンピースなら300元(約5600円)前後からというのがだいたいの相場だろうか。
服のタグをみると、よく知られている有名ブランドが少なくない。ただし、そのなかには本物の有名ブランドの工場からの横流れ品もあり、そのブランドとまったく関係ない衣服にただタグをはりつけただけのまがい物もあり。そのシーズンの旬の商品もあれば、2、3年前のシーズンの服も平気で混じる。サイズも「S」と表示してあるのに妙に大きかったり、「L」とある割には普通のサイズだったりアテにならず、そこは、言ってみれば洋服のカオス。この中から掘り出しものを探すのは、結構な眼力がいる。
こんな「戦地」で何年も買い物をしているうち、かなりレベルアップした力が3つ。
まず1つ目は、素材を見極める力。いまでは触ってみるとだいたい、指先の感覚で、シルク、カシミア、麻、ウールなどのクオリティのよしあしが分かる。時に日本に戻ったときや海外旅行の時など、極上のシルクやカシミアを売るショップに入り、商品にそっとふれて逸品の感触を覚えておく。そしていざカオスの中では、お店の人のセールストークや値段を聞くと先入観が入って判断が鈍るので、なにも聞かずにそっと触れてみる。
2つ目は、サイズを判断する力。いまでは試着せずとも、自分に合ったサイズをほぼ判断できるようになった。各メーカー基準の「S」「M」「L」や欧米のサイズ、日本のサイズ表示も入り混じるカオスでは、その情報に振り回されて試着しているとそれだけで手間ばかりかかってしまう。自分にぴったりのサイズの服の大きさを、ハンガーにかけよく眺め、イメージを頭に刻み込んでおく。これだけで自分に合うサイズの服は、ほぼ選び取れるようになり、合わない服ばかりを試着してどっと疲れることもなくなった。
そして3つ目は、服のイメージを読み取る力。ブランドにはそれぞれ、いかにもその服が似合いそうな理想の女性像があり、きちんとしたショップは、そのトータルなイメージでまとめられている。でも、カオスではいろんなイメージの服がゴチャゴチャに並び、それはあらゆるタイプの人が乗り合わせる満員電車のようでもある。
「これは、ちょっと保守的なシロガネーゼ系奥様服」「丸の内キャリアウーマンの通勤服」「青山に事務所を持つアヴァンギャルドなデザイナーの服」……と勝手にイメージを読みとりながら、服を見ていく。どの服にも「こんな女性に着て欲しい」というメッセージがこもっているようで、カオスゆえ、その様々な物語を読み取るのが私の密かな楽しみになっている。
こうして山のなかから見つけ出した服が、東京に戻った時など、ブランドショップで10倍以上の値段で売られているのを見つけたことも。自分の「バイヤー力」がなかなかのもの、と証明されたようで、こういうのは「世界の工場」中国に暮らすならではの楽しみかもしれない。
最近では、「逆バイヤー力」というか、東京の店頭に売られている「中国製」のタグを見ると、現地ではどのくらいの価格になるか、計算してみるクセまでついてしまった。
服というのは不思議で、置かれる場所によって同じものが華麗に変身したり、ごく庶民的に見えたりする。カオスの市場で、服のマジックがよく見えるようになった気がする。
2005-12-28 | Permalink | コメント (0)
北京引越し事情
前回、「北京不動産事情」でご報告した新しいアパートに、いよいよ今週末は引越しの予定。仕事柄、資料と本と雑誌は膨大な量になり、作業のタイヘンさを考えただけで胸がドキドキしてくるほど。7年ぶりの引越しなので、積もりに積もった過去の怠慢の処理で大騒動になってしまうのだが、私の東京の友人のなかには、「2年に1度の引越し」を自分に課している人がいる。
「ずっと同じ場所にいると行動や考え方がパターン化されてしまうから」という彼女、新しい場所に移るたび、「フレッシュな気持ちになれるし、生活も整理できる」という。なんと立派な心がけ! 東京に比べたら賃貸料が安いのはもちろん、北京では不動産屋への礼金も要らないのだから、もっと気軽に何度か引っ越していても良かったのに……。7年ぶりの引越しにおびえながら、今更ながら反省したりしている。
さて、その引越し好きの彼女にとても羨ましがられたのが、こちらの引越し料金の安さ。「ボーナスは引越しに消えてしまう」と彼女が言うコスト高の日本に比べ、私が依頼する引越し会社の料金は、なんと160元。日本円にして3000円弱で、スタッフ4人、トラック1台がやってくる。引越し会社はいまや激増、熾烈な価格競争にさらされていて、値段はもはやギリギリのところまで下がっているようだ。
ただ、安さに小躍りしたところで、問題が一つ発生。この価格は4人のスタッフがやってきて、あらかじめまとめた荷物を運ぶ、ただそれだけの料金。別に梱包を頼んだ場合は、1時間あたり160元のチャージがさらにかかり、そのうえダンボール1箱につき10元がかかるという。
私のように膨大な荷物の家だとダンボールの数はおそらく20コを軽く超える。20コ×10元で200元。大の男4人+トラック1台が荷物を運ぶ値段より、ダンボールのほうが高いとは、なんだか納得できないような……。人間が多いこの国では、労働者よりダンボールの方が市場価値が高いということ?
そう思ってダンボールを自分でも探してみると、北京の街では、なかなか入手することができない。スーパーや電化製品店などにでかけ、「ダンボールはありませんか?」と聞いても、毎日必ずやってくる廃品回収業者の手にすでに渡ったあと、ということばかり。ダンボールは、荷をほどいた、と思った瞬間、すぐさま業者の手が伸びてくるほど、引っ張りだこの状態なのだ。
仕方がないので、店の外に出て目をこらしていると、自転車の後ろに荷台をつけ、そこに大量のダンボールをのせて走っている廃品回収業者の姿が目についた。たいていは、地方からやってきた出稼ぎ労働者たち。その1台に呼びかけてとまってもらい、ダンボール入手作戦を始めてみた。
内輪の事情を聞きだすと、使用済みのダンボール1箱につき彼らが店に払う料金は1.70元。そしてその1箱を回収業者の親分に2元で売る。荒利が1箱につき0.3元。10箱で3元、100箱で30元。100箱を集めるのに少なくても1日くらいはかかり、その報酬は引越し業者が売る新品のダンボール3コ分。
ここでもダンボールと人間の労働価値が悲しいほどシビアなバランスになっている。実は中国に暮らして切実に感じることの一つは、「モノを右から左へ運ぶ」というような単純労働の徹底的な安さだ。時々書類などのデリバリーに使う自転車便にしても、一周約100kmの第五環状線以内であれば、その料金は10元。雨が降ろうが風が吹こうが環状線の端から端まで何時間かかろうが10元。たいていは田舎から出てきた方言丸出しの少年たちがやってくるのだが、その労働の厳しさ、シビアさに身が引き締まる思いがすることがある。
私と彼らの違いは何だろう?一応、私のほうが頭を使う知的職業とされて、それなりのコストがかかる構造になっているのだが、「本当に」そんなに違うのだろうか?それほどに頭を使っているだろうか?そんな自分への問いかけが時に胸に迫ってくる。
時給の高い仕事と低い仕事が徹底的に分化されている中国。その雲泥の差を毎日直視せざるを得ないだけに人はできる限り這い上がろうとする。それが社会の活力につながるようでもあるのだが……。
さて、廃品回収の中年男性を呼びとめた私は、交渉して彼から直接ダンボールを1箱2元で5箱購入に成功。でも、その折りたたんだ大きな重いダンボールをうまく運ぶ術がなく途中で挫折して、結局タクシーで家まで運んでしまった。「やっぱりあまり頭使ってない」とかなり反省の一日になった。
2005-11-30 | Permalink | コメント (0)
北京不動産事情
いま住んでいるアパートは7年目。仕事柄、本と雑誌と資料があふれ、さすがに限界に近くなってきた。ここ1年ほど、合間を見つけては引越しのための不動産回りをしているのだけど、これが、なかなかエキサイティング。それぞれの家主のキャラクターが濃く、部屋を見せてもらいながらの雑談が楽しい。
私の予算は7、8万円前後。いまどきの東京では、この予算だと一体どんな部屋になるんだろう?北京ならこのくらいの予算でも、便利な場所の、中級~高級マンションの100平米くらいの部屋もOK。3、4年ほど前まではもっと高かったのだが、不動産バブルでマンションが数多く建ち、あきらかな供給過剰のいまでは賃貸料もずいぶん下がった。そのうえ北京では、仲介業者に払う手数料も不要。激しい価格競争を経て引越し料金も激安になっていて、家捜しをする外国人にとっては、かなり嬉しい状況になっている。
130平米のマンションを見せてくれた30代の女性は、ロシアで手広くビジネスを手がける人。中国の南部、商売上手で知られた浙江省・温州の出身で、最初は温州産のメガネをロシアで売る仕事から始めたのだという。商売が成功して、今年はモスクワに高級中華のレストランを開いた。写真を見せてくれたが、ベルサイユ宮殿のような豪華な内装は、中国バブルとロシアバブルのコラボレーション(笑)、といった感じ。北京のほか、上海、広州にいくつもマンションを持ち、不動産業も大成功のようだ。見るからに福運がありそうな彼女にあやかりたく、ここに決めようかとも思ったのだが、歩いて行ける範囲に地下鉄の駅がないのが難点だった。
自家用車が激増、道路の渋滞がひどくなるばかりの北京では、なるべく地下鉄で動くに限る。でも、地下鉄路線はまだまだ発展途上で、近くに駅がないマンションも多い。だから自家用車やタクシーが増えてしまう、という悪循環なのだが、私だけはせめて地下鉄派となって、環境保護にささやかながら貢献したい。そういうわけでこのマンションは断念することに。
92平米、地下鉄駅のすぐ近くのマンションを見せてくれた家主は、これも女性で40代初め。天津出身で、天津や北京にいくつもマンションを持っている。自宅は親子3人で300平米の一軒家。いまは天津郊外に広大な土地を買い、自身が不動産開発を手がけているという。
「あなたね、この部屋は、風水がとてもいいのよ」と彼女からはまず説得力のある一言が飛んできた。確かに、部屋は東南向きで、窓が多く、光がよく入り、風通しがいい。
「あなたは女性の一人住まいでしょ?女性だけだと陰の気が多くなるから、健康のために『陽気』を多くしたほうがいいの。太陽の光が多いと陽気が多くなるから、女性にはとても良い部屋よ。女性一人の場合は、夜もできるだけ電気を全部つけて陽気を多くしたほうがいいくらいなの。電気代なんてたいしたことじゃないでしょ」
いくつもマンションを持ち、不動産開発まで手がけている彼女の風水論、思わず耳を傾けてしまう。
中国では共産党政権になって以来、風水や占いは、迷信として排斥されている。看板を掲げて営業したり、メディアに出たりすることはもちろん禁止。表面上は存在しないことになっているのだが、資本主義的ビジネスが膨らむにつれ、こうしたものに判断の拠り所を求める人が増え、風水、占いはいまや大隆盛のようだ。彼女も土地を開発する時に、建物の方向を見てもらうのはもちろん、手持ちの不動産はすべて風水師に見てもらい、家具の配置などを決めているという。
中国四千年の伝統文化を持ち出され、ぐっと心が傾いたのだが、この部屋、予算よりかなり高めだった。さて、ここからが家賃交渉の腕の見せどころ。中国の場合、交渉力一つで、家賃もかなり下がったりするのだ。
日本人は、「部屋をきれいに使う」、「家賃をきちんと納める」、「集合住宅のルールを守る」、と店子としてとてもイメージが良く、それだけで交渉が優利に運ぶことが多い。それに加えて私の場合は何をアピールしたらいいだろう?
「私は北京に何年も一人暮らしをしていて、いままで一度も事故にも盗難もあわず、病気もほとんどしたことがないんです。どんなに運が強い人間だか分かるでしょう?」最近、私がこういう時、作戦としてよく使うのは、「運の強さ」をアピールすること。異国で一人で暮らす外国人女性、という立場だけに、このフレーズはかなり相手の琴線に響くようなのだ。加えて相手は「風水」という目に見えないものを強く信じる女性。「運の強い店子」なら部屋で火事やガス漏れ、不慮の事故なども起きにくいだろうし、きっと心魅かれるものがあるのでは……。
結果、作戦は見事成功!「運の強い店子」を入居させたくなったらしい彼女と、価格交渉が成立。私の予算の範囲で、彼女の部屋を借りることになった。
さて、風水を信じる彼女と、自分の運の強さを信じて北京で生き抜く私のコラボレーションは来月からスタート。引っ越してからの展開はどうなるか、乞うご期待。
2005-10-27 | Permalink
中国のティータイム
お茶の大国、中国。本場だけに、お茶関連の取材や執筆をすることもこのごろ増えてきたけれど、現地に足を運ぶにつれて、分かってきたことが一つ。「中国的ティータイム」なんていうものは、存在しない、ということだ。
ヨーロッパの何倍も広い中国、各地にその土地のお茶があり、地元の人はそれを飲む。中国人全員が日常的に飲んでいる共通のお茶などというものはないから、「中国的ティータイム」という大きなくくりでは語れない。あえていうなら、各地がそれぞれ土地のお茶を飲んでいる多様性こそが中国的ティータイム、といえるのかもしれない。
例えば、私の住む北京。ここは産地から遠い北の街で、お茶は昔から南部の産地から運ばれてくるもの。長い道のりを運ぶ間にお茶そのものの香りは飛んでしまうので、ジャスミンで香りをつけたジャスミンティーが好まれる。
北京の友達の家に行っても、街のレストランに入っても、お茶といえば、出てくるのはまずジャスミンティー。特に私は、街の安食堂で出てくるチープなジャスミンティーの味が好きで、気取らない炒め物とご飯の後に飲むと、「ああ、北京だな」とちょっと幸せになる。ほのかな香りの漂うジャスミンティーの爽やかさは、オイリーな料理の食中茶にぴったり。それも高価なものだと香りが強すぎて料理とぶつかってしまうからダメで、チープなジャスミンティーの薄い味と香りがいちばん。北京の下町食堂に入られたら、この好相性をぜひチェックを!
それともう一つ、北京的ティータイムの姿で好きなのは、みんなが小型の水筒を持ち歩く習慣だ。水筒のなかには、やはりジャスミンティーの葉が入っていて、職場や工場に着いたらそこにお湯を足す。一日中、飲んではお湯を足し、また飲んではお茶を足し、乾燥の激しい北京では、この習慣がノドを守る秘訣。
急須なんて使わず、茶葉の上に直接、お湯を注ぐラフなスタイルのお茶。でも、この「水筒茶」姿、資源節約、環境保護にもつながる点、ペットボトルをがぶ飲みする姿より21世紀的で、いまどきはかえって格好よくみえる。
それに大事なのは、飲み物がいつも温かい、ということ。中国では体の代謝を下げる冷たい飲み物を嫌がる人が多く、水筒茶はその点も賢い習慣だ。激しい乾燥から体を守るためには、大量に水分を採らないといけないけれど、冷たいものをそんなに飲んでいたら、いつかは体調を崩してしまう。温かいジャスミンティーなら体にもやさしく、水筒茶は生活者の賢い知恵を感じさせる。
そんな姿をいつも見ている私、このごろは 「体が冷える」「冷え性がひどい」などと言いながら、冷え切ったビールやペットボトルのウーロン茶、コーラなどをがぶ飲みしている日本の人を見かけると、「まず、その冷えた飲み物からやめたら」と口出しをしたくなってしまう。そんな方、試しに1カ月でいいから冷たい飲み物を一切やめてみてください。体調は確実に良くなると思うし、次に冷たい物を飲んだ時、胃のあたりがいつもよりつめたく感じられると思う。冷えた飲み物が体にどんなに悪いか、その感じから実感できると思うのだ。
冷えたものを嫌がる友人に囲まれて、私もいまでは飲むもの、食べるものは温かいものばかり。北京に暮らし始めた93年には冷え性で悩んでいたのに、いまでは手先、足先までポカポカで寒さにはかなり強いと思う。冷たいものを極力飲まない、食べない北京で身につけた習慣が体調改善に大きく役立っているような気がしている。
お金を払ったうえ体の調子を落とす冷えた飲み物を飲むなんて、北京人に言わせれば愚の骨頂の行為。マイ水筒茶で節約に励み、温かい飲み物で体調を維持する北京人たち、中国のティータイムといえば、いま私のイメージに浮かぶのは、この姿かもしれない。気取ったお手前でも、高価な茶器でもなく、北京のお茶の素敵さは、毎日をたくましく生き抜くためのこんな賢い習慣にあるような気がするからだ。 もうすぐ秋も本番の北京、寒くなるにつれて乾燥も激しくなるので私もそろそろマイ水筒を取りださなくては。ちなみに私の愛用水筒は、北京の毛主席記念堂で買った毛沢東の肖像が模様についたもの。デスクに高さ15㎝ほどの水筒を置いて、一日中ジャスミンティーを飲みながら執筆やメールの処理。気分は社会主義建設に励むプロレタリアート!という感じで、まさに私の北京的ティータイム、と思う。
2005-09-27 | Permalink | コメント (0)
ロケ裏ストーリー
さまざまな先達の中国旅行記を読むのは、楽しみの一つ。最近、読み返したのは司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ19巻『中国江南のみち』(朝日新聞社/朝日文庫)、芥川龍之介『上海游記 江南游記』(講談社/文芸文庫)。この春、取材旅行でこれらの本に描かれている江南地方を回っていたのだが、旅から戻って改めて目を通してみる。旅にでかける前に読むと先輩たちの知識に圧倒されてしまいそうで、あえて旅の後に。自分の取材の原稿はすべて書き終えた後、普通の読書のリラックスした気持ちで二冊の本に向かい合った。
◆ドラマは舞台裏に
中国に暮らし、様々な場所へ取材旅行にでかけるようになって、こうした紀行記の読み方が変わった。以前は、自分とははるかに遠い、知識人たちの世界の出来事、という感じで読んでいたのだが、自分がロケにでかけるようになると、彼らの紀行記が、自分と同じロケ隊の物語に思えてくる。
知らない土地にでかける。ツテをたどって案内の人に会う。案内の人と共に、ある場所にでかける。期待以上で興奮したり、期待はずれで憤慨したり、しまいには人に頼れなくなって、自分でいろいろと探し始める。そうこうするうちに日程が迫り、行きたい場所に行けなくなって悔しがったり、原稿が書けそうもなくて頭を抱えたり、一行の中に気の合わない人がいて、いらいらしたり……。
大知識人たちに向かって「自分と同じ」は僭越だけれど、広大な中国の知らない土地にでかけ、右往左往している、という一点においては、まったく私と同じと思えてしまう。
いつも思うことだが、きれいにまとまった誌面の「北京特集」「上海特集」といったものの裏では、さまざまなドタバタが起きている。テレビの紀行モノでも、表のストーリーを上回るドラマが実は裏側で起きていたりする。ロケ隊が作った記事や番組より、ロケ隊そのものを密着取材したほうが実は数倍おもしろいのかもしれない。
◆いきなり仕事
ロケ、という仕事の最大の特徴は、知らない土地でみんなでいきなり仕事をしなくてはならない、という点だろう。北京を拠点にしている私は、日本からやってきたスタッフの人たちを北京空港で迎え、そのまま仕事に入ることも、地方の空港でいきなり待ち合わせて仕事に入ることもある。
日本のスタッフの人たちは、それぞれ知り合いであることも、まったく初対面同士のこともある。そこに、全員にとって初対面の私が登場。
司馬遼太郎や芥川龍之介が興味深く土地の案内人を観察、文章のなかにも描写が出てきたりするが、同じように全員の観察眼が一瞬、私に集まる。
「この人、デキるかな?」全員の胸にその時、浮かんでいる問いはこれだろう。ロケがスムーズに進むかどうか、土地の人間に依るところは大きい。スタッフの人たちは、カメラも、照明も、ヘアメイクも、スタイリスト、編集者、ライターも、みな現場を長く体験してきたプロフェッショナルばかり。チームを組む相手の力量を一瞬にして見抜くので、対面の瞬間は、勝負の一つ。
あまりコチコチに緊張せず、かといってルーズにならず、カジュアルに、かつスマートに、なるべくそういう印象になるよう心がけているのだが、さてさて、日本からの方々にはどんなふうに見えているのか……。そんなことを思いながら『江南のみち』や『上海游記江南游記』の記述を読み返してみると面白い。
土地の案内人に温かな視線を送るのは司馬遼太郎。芥川龍之介はやはり辛口だろうか。
◆濃厚な人間関係
知らない人と知らない土地を旅行するだけでも大変なのに、そのうえ取材や撮影をしなくてはならないロケ隊。空港から出て2時間もすれば、もうお互いのキャラクターがなんとなく分かり始める。よく気を使い、冗談を言って場を盛り上げるムードメーカーになる人。一見気難しそうだけど、実はとても温かい人。大雑把に見えて、実は細かいツメがある人。やさしげだけど、仕事になると突然、短気に豹変する人。
モノを作る、というのは、お互いのセンスや意見をさらけださなくてはならないところがあり、ロケの期間の関わりは、普通の友人関係よりもある意味、ずっと濃厚だ。そんな人間関係の上に、さまざまな雑誌の記事やTVの紀行番組ができている。
この仕事をしていて良かったことの一つは、そんな裏側も想像できるようになったことだ。だから芥川龍之介や司馬遼太郎の文章にも、裏側のドラマを想像してしまう。
◆裏読みの楽しみ
「裏側想像力」センサーが働くようになり、仕事上役立つのは、雑誌の文章の裏読みができること。「このレストラン、古い洋館を改装した、って書いてあるけど、写真が外観じゃなくて、内観の写真になっているから、たぶん改装のセンスがあまりよくなくて外観が絵にならないんだろうなあ……」と裏センサーが働く。行ってみると、やはり、その通り。
「あ、このページ、他の店はみな昼間なのに、このレストランだけ夜なのは、日程がきつくて昼間の撮影が間に合わなくなったんだろうなあ」とロケ隊のスケジュールに同情してみたり。
どんなに洗練された誌面であっても、裏側の動きは、意外と人間くさく、ドタバタしてる。だから私はこの仕事が好きなのかもしれないと、このごろ思う。
2005-08-27 | Permalink | コメント (0)
「ただいま」と言われた日
私の趣味の一つは、建物を見ること。いろんな土地にでかけ、いろいろな空間を見る。ただきらびやかな豪華さを強調した建物、特別に目立つ点はないけれど、全体に心地よく落ち着いた建物、ゴテゴテと装飾は凝っているけれど、近寄るとチープさが目立つ建物……。
建物は人に似て、性格がある。それはきっと、デザインを依頼した施主や、建築家や、住む人の性格や趣味や価値観の反映でもあるのだろう。眺めていると、建物に関わった人間たちの姿も想像できるようで、面白い。
◆近代建築のパノラマ
建物を眺める旅に私自身が最も好きなのは、中国の東北地方かもしれない。去年の夏は東北地方、遼寧省の省都・瀋陽へ、旅行記事制作の仕事ででかけた。テーマは、まさに近代建築。
瀋陽には、赤レンガの、東京駅によく似た瀋陽南駅がある。駅を下りて、向かい側の赤レンガの建物群。そのまま西に、大広場に向かって歩き出すとほこりっぽい瀋陽の空気のなかで、白いタイルの壁がひときわ目を引く瀋陽賓館が見えてくる。このあたりは、1908年、日本人の手で造成が始まったエリアで、近代建築のパノラマのような場所だ。
かつての満洲鉄道の玄関口だった時代は、「奉天駅」と呼ばれていた瀋陽南駅。奇しくも1908年、東京駅の工事が始まったのと同じ年に、この駅の工事は始まっている。東京駅の設計は、明治の建築家の重鎮ともいえる位置を占めていた辰野金吾。奉天駅の設計は、その弟子にあたる太田毅。1876年生まれの太田毅は、着工時には32歳。略歴をみると3年後、駅が完成してすぐ、亡くなっている。
大陸の新しい街作りに関わった彼の、なんと若いことだろう。そして、なんて早世なことだろう。こんな建築家の物語を知らずに見ても、駅の建物には、みなぎるような力が感じられる。立ち止まって眺めずにはいられない、こちらの心をつかむ何かがある。
◆玄関のある家
とはいえ、そうした建築をテーマに取材をするのは、こちらも心構えのいることだ。街の人たちにとって、満洲国時代に建てられた、こうした建物は嫌悪の対象であるに違いない。取材をしていて、写真を撮っていて、もしかしたら、ののしられたりするのかもしれない。そういう時、なんと答えよう。それから文章を書くのにも、私自身は一体、どういう態度でこういう建物を見るのだろう。それが決まらないと、原稿を書き出すことさえ、難しい。
……考えた末、素直に思ったのは、建物を生んだ背景には過去の不幸な歴史があるにしても、建物自体に罪はない、ということだった。建物を素直に眺めれば、そこには日本の若い建築家たちが、西洋の建築理論を学び、自国の文化にとりいれて応用させた建築史がある。当時の美意識や価値観もがそこにある。それを静かに客観的に眺めよう、そんなふうに決めてでかけた旅だった。
旅の第一日目、知人の紹介を通して、瀋陽の大学の研究者の方々にお会いした。先生方は、80年代後半から、日本の近代建築の研究を続けている。
「80年代中ごろまでは、日本と関わりのある建物を研究対象にするなんて、とんでもない、という空気でした。でも日本の大学の近代建築研究者からの働きかけがあって、共同研究が始まり、90年代以降は、政府のなかにも少しずつ価値を認める人たちが出てきて、いま瀋陽の近代建築は、街の財産として保存される方向にシフトしつつあります」
先生方の淡々とした客観的な態度に、ほっとしたのを覚えている。
インタビューに続いて先生方に、満洲鉄道の社宅を案内して頂いた。瀋陽南駅の近くに、当時の社宅が残り、いまは街の人たちが住んでいる。そのうちの一つ、幹部用の一戸建て住宅に、先生方とともに入れて頂いた。
そこに住んでいたのは、祖父母と孫娘の三人家族。住宅は靴を脱ぐ日本の暮らしに合わせ、きちんと玄関があり、玄関脇には、応接間があって、当時の暮らしの質の高さを思わせる。
10代の女の子が「日本人はここで、ただいま、って言うんでしょ」と私に話しかけてきた。
住む人も研究する人も、取材をする私たちも、そこにいた誰もが古い住宅の個性と価値を認め、愛しむ、穏やかな雰囲気。取材前の悪い想像とは、まったく逆の出来事だった。この春の反日騒動以来、時々、社宅でのシーンを思い出す。先生方の立場が悪くなっていたりしないか、それも心配だったりする。
日本だから、中国だから、と全面否定するのではなくて、物事をいくつもの角度から眺める静かな態度こそが解決策の一つなのだと思いながら。
2005-07-27 | Permalink | コメント (0)
星に願いを
今年もまた七月七日がやってくる。「七月七日」と聞いて、日本の人は何を思い浮かべるのだろう。北京に住みだすまでは、七月七日、といえば私にとってはなんといっても七夕。一年に一度しか会えない恋人たちの記念日だから、伝統行事のなかでも、いちばんロマンチックで、忘れられないものかもしれない。笹に願いを書いた短冊を吊るすのも情緒がある。いまはもうそんな機会もないけれど、もし短冊に一つだけ願いを書くなら、何だろう。毎年七月七日には、そんなことをふと考える。
でも日本人の大部分がこんなロマンチックな情緒にひたっているこの日、大部分の北京人は、郊外の盧溝橋で1937年7月7日に起きた「盧溝橋事件」を思い浮かべることだろう。
◆七月七日への温度差
私が住む北京で、七月七日に、日本人が多く住むアパートで盆踊りが開催されていたことがある。七月七日の夜、笹を飾り、民謡を流し、めったに着る機会のない浴衣をきて集まる日本人たち。子供たちも喜ぶし、楽しい催しだとは思うのだが、七月七日というのが、難しい。日中戦争の発端となった日。
この日に日本人が集まって楽しい催しをやっているのは、あえていうなら原爆記念日や東京大空襲の日にアメリカ人が集まって広島や東京の下町で、にぎやかにパーティを開催しているようなものだろうか。
伝統行事だということが分からなければ、戦勝祝いのようにも見えたりするのかもしれない。誤解を招きそうで、とても危ない。七月七日、と聞いて「七七事変」と思い浮かべる人の数の比率が、日中で同じくらいにならなければ、対話は難しいように思う。一方が敏感な問題に一方は鈍感、では、事あるごとに温度差から摩擦が生れてしまう。
◆アジアに向けた記念日を
この春起きた反日デモの背後にも、この温度差があるように思う。
大部分の日本の人たちは、この春の反日デモに「寝耳に水」のような「突然感」を持ったのではないだろうか。でも北京に住んでいる身としては、首相が参拝を始めた年から、日本への不信感、嫌悪感が年々高まっていたように思う。
中国人の集まる場で、一人だけ日本人、ということが私の場合はとても多い。そういう席で何度、「小泉首相はなぜ、靖国にいくのか?」と聞かれたことか。それは、今年の春始まったことではなくて、もう何年も問われてきた質問。そういう時、私はその場の日本人代表として答えなくてはならない。
なぜ、首相は靖国に行くのだろう?
「なぜ?」と聞かれると私はいつも答に詰まる。明確な回答を求めている中国の友人たちに対し、私はなんと答えたらいいんだろう。
靖国問題は日本国内でも「参拝するか、しないか」の二元論になっているようだが、「参拝の仕方」をもっと討論することはできないのだろうか。例えば、参拝をして、その日には必ず首相がアジアの人々に向けた平和への誓いをこめたスピーチをする。靖国参拝の日を「アジアへの平和を誓う記念日」としたら、どうなのだろう。
いまのままでは、参拝する日もばらばら、参拝の前後になんのメッセージもなく、アジアの人にとっては(日本人の私たちにとっても)不可解な行動にしか、みえないだろう。首相が参拝にいくたび、戦争の犠牲者を悼み、不戦の誓いをしてくれていたら、「首相は平和を誓うために靖国にいくのだ」とシンプルに答えられたのに。
今回の一連の騒動では、日本人として、明確なロジックで答えられない、というのがいちばん情けない。これほどの国内外に影響を及ぼす行動に対して、小泉首相のきちんとしたロジックの説明を求めたい。
そうでないと、中国に住む私たちは、集まりにでるたび、毎回難問を突きつけられて頭を抱えなくてはならない。
七月七日に思うのは、このごろ増えていくばかりの休日、その一つでもいいから、国内向けでなく、アジア全体の記念日になる日を打ち出せないか、ということだ。例えば七月七日を「アジア平和記念日」として、アジアに向けてメッセージを打ち出す日にしたら、温度差が埋まるきっかけにもなるのではないだろうか。
一連の騒ぎは表面的にはおさまっても、北京の人たちの日本人に対する嫌悪感は高まっていると私には感じられる。同じく日本国内でも中国人に対する嫌悪感は日増しにつのっていることだろう。
今年をきっかけに、同じ問題を同じ温度で考える日として、アジア共通の記念日を創設したら、と切実に思う。
2005-06-27 | Permalink | コメント (0)
大陸のリズムは「自然醒」
冬の間は、朝7時過ぎまで真っ暗な北京だけれど、温かくなるにつれて夜明けが早くなる。7時にもなれば窓から陽がさし、自然に目が覚める。自然に目が覚めることを、中国語では「自然醒」(ズ・ラン・シン)という。「自然醒」は、実は最近の北京ではちょっとした流行り言葉だ。著名な作家が、「成功者の条件は?」と聞かれ、「自然醒!」と答えたことに始まるという。目覚ましに飛び起きることのない、起きたい時に起きる暮らし。確かにそれは多くの人にとって、いつかは実現したい憧れの生活だ。成功者の条件として「自然醒!」と答えた作家の機知に感動するとともに、そこには、大陸に伝わる大いなる智恵が秘められているような気がする。
◆春は「上火」
北京の人たちと話していると、自然と人間の体が密接に関わる、という大陸の常識に気づかされる。春になる。なんだかやたらイライラしたり、吹き出物が出たりする。世間話のついでにそんなこと漏らすと、「上火了」(シャン・フゥ・ラ)と言われる。
「上火」は、体に余分な熱がたまり、様々な不快な症状を引き起こすこと。北京では、日常会話によく登場する言葉で、目の充血、口内炎、歯茎の腫れなども、なったとたんに「上火了」と言われる。
そして、この「上火」、春の訪れと密接に関わっている。春は、日差しが長く、強く、地上に巡りだす季節。植物が芽吹き、動物たちも冬眠から目覚めて生き生きと活動を始める。地上にあふれだすエネルギーに人間も当然、影響を受ける。冬の間、落ち着いていた体は突然、多くのエネルギーを受けて、調子を狂わせる。春に「上火」の症状がでるのは、こちらでは当たり前とされている。
だから春になれば体により熱を与えてしまうような辛いものや、栄養過剰な食べ物を慎むのが常識。果物や野菜を中心に、体の熱を冷ますような食事にシフトして、体の調子を整える。
季節が体に影響する……。北京に暮らしていると、まわりがみなそのように考え、行動しているので、ごく自然にそう思えるのだけど、東京では全く忘れてしまうのは、なぜなんだろう。朝、目が覚めるのが早くなることさえ、北京にいると、「ああ、春なんだな」と私を包む大自然の動きをちゃんと意識できるのに。
◆大陸リズム
最近の私はお正月さえも、中国式の旧正月のほうが気持ちがぴったりくる。日本のお正月は1月1日。冬至を過ぎたばかりで、新年を迎えても寒さはまだまだ続く。それに比べ、中国の農暦のお正月(旧正月)は、毎年、1月末~2月上旬。寒さが極まるころだが、旧正月を過ぎると確実に日差しがかわり、春めいていくのが分かる。新しい年を迎えるには、なんだかこちらのほうが気分がずっと盛り上がる。日差しが明るくなるとか、強くなるとか、そういうことが意外に人の心に大事なのではと最近はよく思うのだ。
今年は私にとって12年目の春。日本では「十年一昔」と10年単位でものをくくるが、いまの私には12年のほうが「区切り」気分にぴったりくる。トリ年に北京に暮らしはじめた私。十二支の動物が一巡りして、またトリ年がやってきた。一つ一つの動物たちがいろんなものを運んできて、ぐるりと一巡り、またゼロから始まる。なんだかそんな気がしている。
「なんだか」そう思う、ということを大事にしたい。
またトリ年がやってきて、自然に目が覚めるように、自然に新しいことをしたくなる時をいま待っている。
2005-05-27 | Permalink | コメント (0)
二つの記念日
私には2つの「北京記念日」がある。その時期、どんなに忙しくても、朝、目が覚めるとちゃんと思い出す。
1つめの記念日は、4月23日。12年前の1993年、北京にやってきた日だ。当時は、商社に勤めていた夫の家族、いわゆる「駐在員夫人」としてだった。
◆初めて見た北京
夫と知り合ったのは、学生時代。卒業後、彼は商社に勤め、私は出版社を経て、映画会社の宣伝ウーマンとして働いていた。結婚後も共働きは続いて、それは毎日が体育会の合宿みたいな暮らしぶり。2人とも早朝に出て行って、戻りはほぼ終電。終電の改札で、夫とバッタリ、ということよくあって、専業主婦の妻が多数派の商社の世界では、当時から変わったカップルとして目立っていたらしい。
「合宿生活」から数年を経た89年、夫は企業派遣の留学生として、北京に単身、旅立つことになった。旅立ちを前に、この年の6月4日には、天安門事件が起きて、9月の出発の予定が一体どうなるのか、不安になったのを覚えている。
いま思えば、この辺りが私の生活に「中国」が関わりだした始まりだったのだと思う。映画の仕事では、特にフランスと縁が深く、それまではヨーロッパ一辺倒だった私が初めて真剣に、食い入るように、中国の姿をTV画面に追った。 長安街を走る戦車。たったひとり、その前に立ちはだかり、行く手をさえぎろうとした若者。暗闇のなか、炸裂する機関銃。
気がつかないうち見ていて、涙が流れたのを覚えている。
東京ではまるでコンビニエンスストアのように日常にあふれている自由。自分もまるで当然のように手にしている自由。その自由を求めるという行為のために、北京では死んでいく人がいる。
今、手にしている自由を、私は十分に活用している?北京で暮らす今も、時々、自分に問いかける。
◆スタート記念日
「自由」を守り、生かすために、できるだけの努力をすること。私の生涯のテーマと決めているのだけれど、その奮闘の地に北京を選んだ理由は、どこか無意識のうちに89年のあの映像につながっているのだと思う。私にとって、この地はきっと、自由を求めるのに、いろいろな意味でふさわしい場所なのだ。
89年夏が過ぎ、夫は結局、予定通り北京に旅立ち、留学を終えた3年後には、北京駐在の辞令を受けた。一緒について行くか、私だけ残るか?5年目に入っていた映画会社の仕事も充実はしていたのだが、なにか新しいものに触れたい思いも強かった。
迷った末、北京空港に降り立ったのが、1993年4月23日。改装前の薄暗い北京空港の税関で、係員にパスポートを出し、「謝々!」と一言。中国語の単語は、当時それしかできなかったから、はりきって使ってみたのだ。
余談だけど、10周年を迎えた2003年には、謝恩パーティでも開こうと計画していたのだが、当時SARS禍に襲われていた北京では、人が集まること自体がとんでもない、といった時期で、結局家にこもって過ごした。
中国語もできず、一人の中国人の友達もいなかった、北京生活のスタート記念日が4月23日。
◆第二記念日
2つめの記念日は、1月15日。この日は駐在員の家族として4年半あまりを暮らした私が、日本に一時帰国後、たったひとりで、再び北京に戻ってきた日だ。それは、98年1月15日のこと。
日本で出版社や映画会社で働いていた時代から、私は書くことが好きで、知り合いになった編集者から時々、小さなコラムなどの仕事をもらい、趣味で原稿を書くことがあった。駐在員の家族として暮らした後半から、昔の知り合いから北京についての原稿を頼まれることがポツポツと増えだし、無謀にも「書くことで北京でやっていく」という野望を抱き、ひとり、この地に残ってみることにしたのだ。
「どうやってご主人を説得したの?」とよく聞かれるけれど、自分の思いを素直に正直に伝えた、としか言いようがない。子供のころから読むのも書くのも大好きだった私は、「文字」に対しては、異様なほどに情熱が沸く。多忙だった映画会社の仕事から離れて、中国語を勉強し、少しずつ原稿を書き始めて、自分の「文字に対する執着」を改めて知ったのも北京でだった。
晴れ晴れした気持ちで降り立ったのが第一の記念日なら、第二の記念日は不安と迷いが大部分で、ほんの少しの勇気をむりやり奮い立たせている状態だった。
それから7年。今も私は北京にいて、フリーランスでメディアの仕事をして生きている。
今年、2005年に入ってすぐの1月17日には、89年、天安門に集まった学生たちに同情的だった行動を問われ、共産党総書記を追われた趙紫陽が亡くなった。中央電視台のニュースでは、「趙紫陽同志は、89年の政治的事件では重大な誤りを犯した」と報道されて、そんな映像をみていると、自由を求めてこの地で戦った人たちの姿が鮮やかに頭に蘇る。
私は怠け者だし、あの人たちのように体を張って路上に出たりすることもしていない。だけど、心の奥に「自由」と「文字」への憧れがいつもあって、北京は触媒のような街で、なぜかここにいるとその思いが強く沸いてきてしまう。
その日々は、悲しいこともあり、嬉しいこともある、「恋」にも似た北京奮闘記。これから少しずつお伝えしていきたいと思う。
2005-04-27 | Permalink | コメント (1)
ごあいさつ
北京に暮らして12年。ライター&コーディネイターとして、日本の雑誌、新聞、テレビむけに北京の最新情報を送り続けています。
取材にでかけ、新しい人と知り合い、刺激を得る嬉しい日。
かと思えば、朝からなにもかもうまくいかなくて、どっと疲れる日。
それは恋に似て、心は急上昇と急下降の繰り返し。でも、私を一人前に育ててくれるダイナミックな街、北京が好きで、いまでも天安門広場のあたりを通ると、自分の意思でこの街で暮らしていることが心から誇らしく思えるのです。
それはなんだか長く続いた恋にも似ているので、タイトルは「北京恋歌」。2008年にむけて疾走する北京を追いかける日々、その思いと最新ニュースをお伝えしていきます。
2005-03-15 | Permalink
